織絵屋のブログ
10/06: 大地の色を移す趣泥染
織絵屋の松山です。今回、新潟県十日町の特別な泥染について述べます。
草木友禅の田村哲彦の片腕として、20年以上も支え、工房の柏田屋が破綻後、染職人たちの生活を守るためにすべてを引き継いだ滝沢進氏。
滝沢氏は、琥珀染、ゆきつばき染の草木友禅を生み出した人物です。


草木友禅に使われる染料は40色以上になるそうです。
氏がフォーマルだけでなく、カジュアルに着られるきものをお客様から要望され、生み出したのが「趣泥染(しゅでぃぞめ)」のきものである。
十日町市の各地の土を使い、大地の色を絹布移す新しい染を模索しました。
行きついたのが、十日町でしか出せない、化学染料でも出せない趣のある色でした。
日本一美味しい米と称されるコシヒカリを生み出す田んぼの泥、縄文土器の国宝「火焔土器」を生み出した土地の土、そして鉄分豊富な温泉の泥の三つを組み合わせた泥で染め上がる、十日町の大地の色を移したきものです。

17日~19日に開催する弊社の「45歳の誕生祭」に滝沢氏が来場し、お披露目します。
09/03: 伊勢型小紋と江戸小紋
織絵屋の松山です。前回に続きますが、漉いた和紙を柿渋で貼り合わせた「型地紙」に、伊勢型紙の彫師が文様を彫っていきます。彫り技法には、「錐彫り」「突き彫り」「道具彫り」「縞彫り」があります。
これらの彫り技法で完成したものが伊勢型紙です。
伊勢型紙を使って染められたものが伊勢型小紋、または江戸小紋と呼ばれます。
昭和30年、伊勢の型紙職人の6名が人間国宝に認定された時、同時に人間国宝に認定されたのが東京の染め師・小宮康助氏です。氏が人間国宝の打診をされたとき「そんな名誉は伊勢型紙の彫師に与えるべきだ」と言ったという話は有名です。
そんな経緯もあり、他の伊勢型小紋と区別して「江戸小紋」という名称が生まれました。
現在では、伊勢型紙を使って東京で染められた小紋が江戸小紋、京都や他で染められた小紋が伊勢型小紋と呼ばれています。
どちらにしても、伊勢型紙を彫る技術も、その型紙を使って染める技術も大変な技といえます。
京都に「染処・古今」という染工房があります。人間国宝の遺作の伊勢型紙を使って染める唯一の工房です。「染処・古今」が人間国宝の名を使って高額で販売しないことから、故人の遺族から一任されたそうです。
今月13日(日)~15日(火)まで、店内にて古今の安江社長に来ていただき、『伊勢型小紋 人間国宝三人展」を開催します。
実際に、人間国宝が彫った伊勢型紙を見ることができます!興味のある方はお問い合わせ、またはご来店ください。
08/07: 伊勢型紙について
織絵屋の松山です。今回は、江戸小紋や友禅小紋、浴衣を染める型紙「伊勢型紙」について述べます。
今から1200年ほど前、子音観音寺の不断桜の落ち葉に空いた虫食いの穴を見て、模様を染める『型紙』に思い至ったという人の伝説が残っています。

その後、武士の裃を染めるために用いられ、やがて、江戸庶民の意気から「そこ至り」といわれる超微細な文様を染める型紙まで彫られるようになりました。

型紙は伊勢の白子(現在の三重県鈴鹿市白子)で彫られ、紀州藩の庇護を受け、独占的に発展したことから伊勢型紙と呼ばれるようになったのです。
伊勢型紙の製作工程は以下の通りです。
手漉きの美濃和紙3枚を縦横縦と交互に柿渋で貼り合わせていきます。それを天日干し後、杉のおがくずで一週間ほど燻してから柿渋に浸し一ヶ月半ほど乾燥させると、焦げ茶色の「型地紙」になります。
出来た「型地紙」を実際に型彫りに使うまでには、さらに、1~2年も寝かせる必要があるそうです。
そして、昭和30年の人間国宝制度の発足時に、人間国宝に認定された30名の中に伊勢型紙職人が6人もいることから、その技のすごさが理解できます。
伊勢型紙は美濃和紙を漉くことも含め、多くの時間と熟練の職人の手仕事によって完成しているのです。
07/04: 蠟彩染(ろうさいぞめ)とは
織絵屋の松山です。今回は、あまり聞いたことがないと思いますが『蠟彩染』について述べます。
蠟彩染は友禅染の糸目(模様の縁の線)の糊の代わりに蝋(ロウ)を使って防染する技法です。
一般的なロウケツ染の作品は、色ごとにロウを重ねながら染めるので、淡い色の着物や帯はほとんどありません。でも、蠟彩染は淡い色の着物や帯を染められる利点があります。
蠟彩染の染工程は、まず、白生地に模様部分を溶かしたロウで描き、その後、地色を染めます。
ロウを洗い流すと、最初にロウで描いた部分だけが白く残ります。 白く残った部分に、染料で友禅と同じ様に彩色していきます。
友禅染の糸目の白い輪郭線がないので、模様の縁がやわらかく溶けるように見えます。

また、ロウの割れやムラによる「ひび割れ模様」が味わい深い作品に仕上がります。
部分部分で大胆に色を切り替えたり、階段状の濃淡をつけたり、ややモダンな絵画的な雰囲気になりやすい特徴があります。
蝋彩染の作家は、京都の山科に工房を構える中嶋剛司氏だけです。

蠟彩染を父親から引き継いだ中嶋剛司氏は、図案から染まで、こだわりを持って創作しています。
「百聞は一見にしかず」です。7月11日~13日の店で開催する「たなばた祭」で、先生と先生の作品に会えます。
05/29: 元々は男性専用だった『羽 織』
織絵屋の松山です。今回は、今、きものをファッションとして楽しむ女性たちに、最も人気の羽織について述べます。
羽織の始まりは、戦国時代の武士の陣羽織です。

平和な江戸時代になると、男性の正装として、袴に黒紋付羽織が定着しました。

しかし、羽織は男性の権威を表すモノでしたから、女性が羽織を着用することはご法度でした。
江戸中期になると、粋な深川芸者衆が、「芸を売っても女は売らいない」という意思表示の為に、羽織を着用し、羽織芸者とも呼ばれるようになりました。
その粋な羽織姿は、たちまち人気になり、町人の女性の間にも広がったことから、幕府は町人の羽織着用禁止令を出したほどです。
女性の羽織は、大正から昭和初期にかけ、外出着に重ねる丈の長い羽織が流行しました。
戦後は、余裕のない物不足の時代でしたので、丈が短くなり、また、重ねるだけで準礼装となる黒の紋付羽織や絵羽織が一世を風靡しました。
しかし、昭和の50年代になると、そのような羽織も徐々に姿を消していきました。
近年、羽織の優雅さ、ファッション性に気が付いた女性たちが選ぶ羽織は7分丈、8分丈の長羽織が主流となっています。

