織絵屋のブログ

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織絵屋の松山です。今回は沖縄(琉球)の『花織』について述べます。

 

沖縄は、琉球王朝の時代に、科挙制度を取り入れて、村や島々の優秀な若者を中国へ留学させていました。

 

そして、それらの若者らが中国の織物技術を持ち帰り、それぞれの村や島の特徴ある織物へと発展させました。

 

それらの織物の中に、可憐な花模様のような柄を織り込んだ花織(沖縄ではハナウイと呼ぶ)があります。

 

花織は独特の浮き紋織(柄が浮き出る織り方)で、沖縄本島の『読谷山(ユンタンザ)花織』、『南風原(ハエバル)花織』、そして、与那国島の『与那国(ヨナクニ)花織』があります。

 

これらの花織は、琉球王朝の王や貴族以外は着用を許されない御用布でした。

 

花織の基本的な織文様には次のような意味があります。

 

招福や生活安泰を意味する『ジンバナ(銭花)』、長寿、健康を意味する『カジマヤー(風車)』、そして、末広、子孫繁栄を意味する『オージバナ(扇華)』。

 

  上からジンバナ(銭花)・カジマヤー(風車)

花織は、現在、着尺(着物用の生地)と帯が織られていますが、かつては、ティサージ(手巾)と呼ばれた手拭いが織られていました。

 

ティサージは肩や腰に下げ、装飾として使われていたモノで、二つの意味を込めて織られていました。

 

一つは、漁や旅に出る親兄弟の無事を願って織る『ウミナイティサージ(姉妹手巾・祈りの手巾)』、もう一つは、女性が愛する男性のために織る『ウムイヌティサージ(想いの手巾)』。

 

「思いを込めて文様を織る」なんて、現代人が忘れてしまったロマンかもしれないですね。

織絵屋の松山です。今回は、京都と並ぶ着物の一大産地と呼ばれる新潟県について述べます。

 

新潟県の内陸部にある十日町市、小千谷市が着物生産地の中心です。

 

2mを超える積雪があり、また、寒暖差や適度な湿度などが良質な糸づくりの条件に適し、麻織物は1200年も前から織られていました。

 

また、上杉鷹山が米沢藩の財政改革のために、越後(新潟県)の織物職人を呼び寄せて、米沢織などの様々な織物を開発したことは有名です。

 

代表的な織物としては、古くから織られ、国の重要無形文化財にしてされた麻織物の「越後上布」、また、およそ320年前の江戸時代に武士の夏服として開発され、大ヒットした「小千谷縮」があります。

 

近代では、明治の終わり頃から昭和初期まで、女性を魅了した蝉の翅(セミのハネ)とも呼ばれた「明石縮」、単衣の着物として最適な「塩沢お召」があります。

 

さらに、戦後に開発された、入卒業式時に母親たちが揃って着用した「黒絵羽織」、近年に開発された絞り染めの「おぼろ染」も外せません。

 

次々に、魅力的な着物を生み出す産地の熱意は、京都さえ凌ぐかもしれません。

 

近年に2度の大地震に襲われ、廃業した工房もありますが、今なお、苦境に負けずに頑張っている産地です。

 

皆さんにも、応援してもらいたい産地です。

 織絵屋の松山です。緯糸に太くて豊富な色糸を使って文様が織られた唐織の帯は、豪華に見えてとても軽いことから女性が憧れる帯です。今回は、唐織の帯について述べます。

 

  唐織は中国の織物という意味ですが、実際には室町時代から日本で織られるようになった縫取り織の一種です。

 唐織が日本で織られるようになった理由は、能装束にあります。能装束の文様は元々、刺繍で作られていました。

 

 しかし、豪華な文様の能装束は制作に時間が掛かり過ぎ、また、重くて舞い手の負担は大変なモノでした。

 

 糸を浮かせて織る織り方が中国から伝わり、平安時代の十二単の上着(唐衣)に用いられていました。

 

この唐衣の織り方を日本で改良と工夫を重ねて「唐織」が生まれました。

 

 唐織の特徴は、生地を織りながら太い緯糸を織物の表面に浮き上がらせて、立体感のある文様を表現するので、とても豪華です。また、裏糸、1本1本を丁寧に切り取り、整理するのでとても軽いモノになります。

 やがて、帯の製法にも使われるようになったのです。

 

 京都・西陣にある創業117年の「鈴木」では、フォーマル用だけでなく、カジュアルな紬や小紋にも締められる「水衣錦」という唐織も織っています。

織絵屋の松山です。同じ東北に住みながら、最北の着物産地と呼ばれる山形県米沢市の米沢織の着物を、どれほどの方が知っているでしょうか?また、持っているでしょうか?

米沢で絹織物業が盛んになったルーツは米沢藩9代藩主「上杉鷹山」にあります。

今から260年ほど前、九州・宮崎(日向)の高鍋藩から上杉藩に婿入りした鷹山は、破綻寸前の財政を立て直すために一大改革を行いました。藩の収入を増やすために新しい産業を興す必要があったからです。

その一つが、絹織物業でした。まず、空いている土地には藩士の庭にまで桑の木を植え、養蚕に力を入れました。そして、隣国の新潟・小千谷から染織の職人を招き、藩士やその妻女に新しい染織技術を習得させたのです。

また、遠くの琉球(沖縄)からも絣職人を呼び寄せ、絣技術も習得させたのです。この絣の織物は、米琉絣(米沢の琉球絣)と呼ばれるようになりました。

やがて、これらの絹織物業は米沢藩の大きな経済基盤になるほどまでに発展していったのです。

他の産地との大きな違いは、藩士が絹織物業を担ったことで、同じ織物を織り続けるのではなく、それぞれが独自に新しい織物を考案し、革新を怠らず、常に進化し続けてきたことです。

織絵屋の松山です。前々回の『竹』、前回の『梅』に続いて、今回は『松』の文様について述べます。

 

松は、古代中国では風雪に耐え、厳寒の冬にあっても常緑を保つことから節操が高いことを意味しました。

 

神通力のある仙人が松の木に住み、松の実を食すという仙人思想と結びついて、松は長寿延命の印とされていました。

 

また、松の文字の「公」は男性・父親を表す文字です。『松竹梅』は『父・子・母』を指します。

 

日本でも、古くより、松はどんなに痩せた土地や岩の割れ目でも、長い時を待ち続けて、やがて、芽を出し生長する生命力、千年を超える寿命、また、四季を通して葉の色が変わらない「常盤木(ときわぎ)」であることから縁起の良い吉祥のシンボルとされてきました。

 

松の文様には様々な種類があります。

 

松の木そのものの文様としては、生命力があふれる「若松」、長寿で姿が雄々しくも美しい「老松」、門松のルーツと言われる「根引き松」などがあります。

 

また、松皮菱文様は、剥いだ松の皮をデザイン化したものです。

 

松葉は、他の木の葉と違い、二枚の葉が元で結ばれ、落葉しても二枚の葉は離れないことから、松葉文様はあの世までも一緒にいるという永遠の愛・結びつきを表します。

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