織絵屋のブログ

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 織絵屋の松山です。今回は、伊勢型紙を使って染めた本物の江戸小紋について述べます。

 

 伊勢型紙を使って染めた本物の江戸小紋は不思議な着物と言えます。

 

 数年前、私が姪の結婚式に江戸小紋を着用して出席した際、同じテーブルの若い女性に「その着物、かっこいいですね!」と言われ、江戸小紋について熱弁した思い出があります。

 

 また、こんなこともありました。「その色系は私には似合わないわ!」というお客様が、実際にその江戸小紋を試着してみたら、顔を輝かせて「これ、いい!」と、即、購入を決められました。

 

 錐彫り(きりぼり)の伊勢型紙を使って染められた江戸小紋は、ほとんど無地に見えますが極小の点で文様が染められています。

 

 半円柱状の錐を回転させながら多いモノでは3cm四方の中に1,000個もの穴が開けられた伊勢型紙は、鮫や角通し、行儀などの様々な文様があります。

 

 すべて同じ点に見える職人の手技ですが、拡大すると微妙に違いが見えます。これが「ゆらぎ」なんですね。だから、着る人を引き立てるのだと思います。

 

 この錐彫りの他に、「縞彫り」「突き彫り」「道具彫り」の伊勢型紙を使って染めた江戸小紋があります。

 

 江戸小紋は、今、訪日の外国人が使う「クール」という言葉にぴったりの着物と言えます。

織絵屋の松山です。今回は「ビロードのような手触り」「ビロードのような舌触り」など、なめらかさの最上級の比喩の言葉にも使われ、織物の宝石と呼ばれるビロード織について述べます。

 

ビロード織は13世紀のイタリアで発祥し、あっという間にヨーロッパの貴族たちを魅了していきました。

 

日本には、ポルトガルから輸入された鉄砲を包んでいた布として、初めて伝わりました。

 

その織り方は秘密でしたが、細い銅線が残ったビロードの布が発見されたのを機に、その織り方を解明し、早くも江戸初期には西陣で織られるようになったそうです。

 

日本の匠、おそるべしですね。

 

ビロード織は「輪奈織」とも呼ばれ、経糸の一部を浮かし、その部分に針金を緯糸として織っていきます。

 

織り上がった生地から針金を抜くと、タオル地のようにパイル状(糸が飛び出した状態)になります。

 

そのままのモノを「輪奈ビロード」と呼び、パイルの頭部分を切ったモノを「切りビロード」と呼びます。

 

ビロード織は、大正から昭和の初期にかけて、羽織やコート、ショールの生地として重宝され、女性があこがれる織物でした。

 

しかし、戦後はその織り方の難しさから撤退する機屋が増え、現在では1社のみになっています。

 

上品で、軽くて暖かい「輪奈ビロード」のコートは、北国の女性には1枚は持って欲しいコートです。

 織絵屋の松山です!今回は、下記のようなお悩みを解決してくれる「悉皆業」について述べます。

「母の形見の着物、若いときに自分の給料で初めて買った記念の着物、成人式に着た振袖などがある。色んな思い出があって捨てられない。」「娘に着せたいけど、シミ、汚れがあるし、寸法も足りない、好みの色じゃないかも?」「これって、どうにか活かせる方法があるの?」

 

 悉皆(しっかい)とは「ことごとく皆」という意味です。

 

 着物は、白い生地があり、染める人がいて、箔や刺繍を施す人がいて、また、蒸す人、洗う人、シミを取る人…など、様々な分業によって完成します。

 

 これらの職人をプロデュースする、着物に関する全てに精通した人、つまり、オーケストラの指揮者に当たります。

 

 また、古い着物の補正や修正、染め替えの時は、それぞれにふさわしい加工を見極め、各職人さんに指示しなければならない大変な仕事です。

 

 このシミは、どうすれば取れるのか、取れなければ、どういう加工をすれば良いのか?元の色に何色を掛ければ、希望の色になるのか?…など、様々な問題に対処しなければならず、「悉皆(しっかい)」は「やっかい」と敬遠される仕事でもあります。

 

 しかし、古い着物でも、加工の良いモノは悉皆によって見違えるほど素敵に再生されます。否、加工する前より良くなり、感動するお客様もたくさんいます。

 

 例えば、母親の淡いブルーの振袖を藍色系に染め替えされたとき、その深い色に、本人もお母様もお祖母様も三代で感激しておられました。

https://www.youtube.com/watch?v=fcUuVtdFUxY

 

想い出があっても着られない着物を悉皆業の方にお任せして、再びスポットを当ててあげませんか?

織絵屋の松山です。今回は、常盤木(一年中、葉が青い木)である椿について述べます。

            

ヤブツバキやユキツバキなど椿は、日本が原産で、梅が中国から渡来するまでは最高の吉祥木とされていました。

 

平安時代、椿の実は油や化粧品、不老長寿の薬として重宝されていました。

 

また、古来、最も高貴な色とされていた紫を染めるのに、椿を燃やしてできた灰を焙煎剤として使用していたために、椿は貴族にとって高貴な花、聖なる花として扱われていたそうです。

 

室町時代に興った茶道の普及と共に、椿は茶花として脚光を浴び、茶道・遠州流の祖が好んだ椿文様は「遠州椿」と呼ばれています。

 

江戸時代には、椿は将軍から庶民まで広く愛好され、品種改良によって500種以上にもなったそうです。

 

江戸時代の武士は、花がぽとりと落ちるのが縁起悪いと家紋には用いなかったそうですが、古来、椿は邪気を寄せ付けない厄除けの呪木(じゅぼく)とされていました。

 

源氏物語『若菜』の帖に、椿餅(つばいもちひ)を食する場面が描かれています。これは蹴鞠(けまり)の鹿革の穢れを祓うためであり、椿の呪木としての力を信じていたのでしょうね。

 

これらのことから、着物や帯に使われている椿文様は吉祥花、厄除けとして、春だけでなく一年中楽しめる文様と言えます。

 

着物について知りたい、分からないことなど何でもお聞きください!きもの道47年の私・松山がお答えします。

織絵屋の松山です。今回は沖縄(琉球)の『花織』について述べます。

 

沖縄は、琉球王朝の時代に、科挙制度を取り入れて、村や島々の優秀な若者を中国へ留学させていました。

 

そして、それらの若者らが中国の織物技術を持ち帰り、それぞれの村や島の特徴ある織物へと発展させました。

 

それらの織物の中に、可憐な花模様のような柄を織り込んだ花織(沖縄ではハナウイと呼ぶ)があります。

 

花織は独特の浮き紋織(柄が浮き出る織り方)で、沖縄本島の『読谷山(ユンタンザ)花織』、『南風原(ハエバル)花織』、そして、与那国島の『与那国(ヨナクニ)花織』があります。

 

これらの花織は、琉球王朝の王や貴族以外は着用を許されない御用布でした。

 

花織の基本的な織文様には次のような意味があります。

 

招福や生活安泰を意味する『ジンバナ(銭花)』、長寿、健康を意味する『カジマヤー(風車)』、そして、末広、子孫繁栄を意味する『オージバナ(扇華)』。

 

  上からジンバナ(銭花)・カジマヤー(風車)

花織は、現在、着尺(着物用の生地)と帯が織られていますが、かつては、ティサージ(手巾)と呼ばれた手拭いが織られていました。

 

ティサージは肩や腰に下げ、装飾として使われていたモノで、二つの意味を込めて織られていました。

 

一つは、漁や旅に出る親兄弟の無事を願って織る『ウミナイティサージ(姉妹手巾・祈りの手巾)』、もう一つは、女性が愛する男性のために織る『ウムイヌティサージ(想いの手巾)』。

 

「思いを込めて文様を織る」なんて、現代人が忘れてしまったロマンかもしれないですね。

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