織絵屋のブログ
01/16: 『江戸小紋』について
織絵屋の松山です。前回の『小紋』でも述べましたが、江戸小紋は武士の裃から発展しました。裃に染められた文様でどこの藩士か分かるようにしたのです。
庶民の服装が華やかになると、江戸幕府は、庶民が絞りや友禅などを着用することを禁じる奢侈禁止令を出しました。
すると、庶民は隠れたところにオシャレを楽しみました。
長襦袢や羽裏などに贅を尽くしました。そして、遠目には無地にしか見えない極小柄の江戸小紋を羽織や着物に用いたのです。
もちろん、各藩の裃に使われる文様(柄)は使えませんので、いわれ小紋と呼ばれた「南天(難を転じて福となすの意」、「六瓢箪(むびょうたん・無病)の意」などの文様や「大根におろし金」、「魚に包丁」といった生活用品の文様を使いました。
江戸小紋の染め方は、白生地に文様を彫った型紙を使い、糊を型置きしていき、その上から地色を染めます。その後、水洗いすると型置きした糊が洗い流され、白い文様が現れます。
型紙は伊勢の白子(三重県鈴鹿市)で作られていますが、楮の和紙3、4枚を柿渋で貼り合わせ、数年から10年も寝かせてから、初めて型彫りします。
型彫りに使う様々な道具も、職人が自ら手作りするそうです。
糊の型置きは型紙を40~100回以上も移動して文様(柄)がピッタリ合うようにしなければなりません。
一反の着物を染めるために使われる時間と労力の、なんと贅沢なことでしょう。
時間に追われる現代人に、ぜひ、来てもらいたい江戸小紋の着物、羽織です。
「あら、ステキな色無地ね」と思わせておいて、「近くで見て!実は、これ、江戸小紋なのよ!」なんて、考えるだけで楽しいと思いませんか?
江戸小紋が気になる方は、是非、お問い合わせ、または一度ご来店下さい。
01/15: 『小紋(こもん)』のいわれ
織絵屋の松山です。現代では、小紋とは、同じ柄が連続して染められている着物の全てを言います。
小紋は、小さな紋と書きますが、その由来について述べます。
その由来は武士の裃(かみしも)から来ています。
江戸時代に、参勤交代制度が確立し、地方の大名も、必ず江戸に上京しなければならなくなりました。
すると、江戸城の殿中で、同じ佐々木という家の武士がいた場合、どこの藩の佐々木さんなのか分かりません。
そこで、一目ですぐ分かるように、各藩の文様(小さな鮫文様やあられ文様など)を裃に染めたのです。
上の例でいえば、佐々木家を表す背紋や胸紋の大きな紋に対して小さな紋ということで小紋と呼ばれるようになりました。
やがて、小紋は様々な文様が染められるようになり、芸者衆を始め、女性たちも着るようになりました。
ところで、着物通の女性が良く使う言葉に「着物は小紋に始まり、小紋に終わる」という言葉があります。
これは、小紋のバリエーションの多さからフォーマルからカジュアルまで幅広く着回しできる重宝な着物だからこそです。
男の正装柄であった江戸小紋に、男しか着装できなかった羽織(少し長めが良い)を重ねて、「粋な女」を演じるのも楽しいと思います。
小紋が気になる方は、是非、お問い合わせ、または一度ご来店下さい。
01/13: なぜ、女性の着物だけに「おはしょり」があるのでしょうか?
織絵屋の松山です。私は会社(店)から帰宅すると、自宅用の普段着に着替えます。着物を脱いで、また別の着物に着替えるのですが、5分もあれば十分。
これは、私が男なので、男の着物は着丈で作られていますし、帯結びも簡単だからです。
しかし、女性の着物には「おはしょり」という余分な部分があります。これが、女性が自分で着物を着るときの第一の関門になっています。
なぜ、女性の着物だけに「おはしょり」があるのでしょうか?
「おはしょり」になる部分は、身丈から着丈を引いた30cmほどで、ちょうど帯の下部分になるところです。
「おはしょり」があることで、腰紐の位置をずらせば、少々の身長の違いは問題なく着られる合理性があります。
また、着丈の着物は少し動くだけで着くずれしやすく、前部分がはだけてしまいます。特に、女性の場合は胸のふくらみがあるのでなおさらです。
実は、もうひとつ「おはしょり」には深い意味があります。
時代劇等で、おはしょりをせずに着物を引きずっているシーンをよく見かけると思います。
源氏物語でも分かるように、昔は男性が女性のところに通う「通い婚」でした。そのため、女性の着物には夜具(布団)の役目が必要だったと言われています。
それ故に、「おはしょり」に女性の色気が漂うのかもしれません。
01/12: 『帯締め、帯揚げ」の歴史
織絵屋の松山です。帯締め、帯揚げの歴史は、江戸時代の後期から始まりました。
それ以前は、時代劇や浮世絵を見ても分かるように帯締め、帯揚げは使われていませんでした。
今から200年ほど前、江戸・亀戸天神の太鼓橋再建の渡り初め式で、深川芸者衆が揃って太鼓橋に似せた帯結びをしました。
この帯結びは「お太鼓結び」と呼ばれ、「芸は売っても女は売らない」という粋な羽織芸者が揃って締めたことで、「お太鼓結び」はあっという間に一般女性の間に広まったのです。
「お太鼓結び」は、帯を固定する紐が必要なことから、帯締めが生まれました。帯締めは、始めは布を筒状に縫い、中に綿を詰めた、いわゆる「丸ぐけ」でした。
やがて、昭和になると、高価ではあるが結び目が緩みにくい組紐の帯締めが主流になっていきました。
また、「お太鼓結び」にはどうしても帯枕が必要です。帯揚げは、この帯枕を包んで隠し、着物と帯の間のアクセント、装飾として使われました。
帯締めと帯揚げは着物姿の画龍点睛。どんなに高価で素敵な着物と帯で装っていても、帯締め、帯揚げが貧弱だったり、合っていないと全てが台無しになってしまいます。
同じ着物と帯でも、帯締め、帯揚げを替えるだけで季節感を出せます。春夏は寒色系や明るめの色で、秋冬は暖色系や濃いめの色を基本にすると間違いないでしょう。
帯締め、帯揚げのコーディネートでお悩みの方は、気軽にお問い合わせは、またはご来店下さい。
01/11: 『長襦袢・半衿』の歴史
織絵屋の松山です。長襦袢の名の由来は、ポルトガルのジバン(肌着、シャツの意味)から来たと言われています。
長襦袢の始まりは、腰までの長さの半襦袢でした。この半襦袢に裾除けを合せたものが、江戸中期までの一般的な下着のスタイルでした。
元禄の頃、遊郭で半襦袢と裾除けを縫い合わせたモノが流行し、これが一般庶民にも広がり、長襦袢を着る人が増えたのです。
江戸幕府が、度々、奢侈禁止令を出し、庶民の華美な服装を取り締まっていくと、庶民は見えないところに贅を尽くすようになりました。
その一つが長襦袢でした。生地に羽二重や綸子などの高級な絹物を使い、友禅や刺しゅう、絞りを施し、現代の人が見ると、とても下着とは思えないほどぜいたくな長襦袢も着られていました。
半衿は、当初、普段着には汚れが目立たない黒、礼装には白の無地を使っていましたが、贅をつくした長襦袢が着られるようになると、小紋柄や刺しゅう、絞りなどの色半衿が流行しました。
明治から昭和初期までは、多くの半衿の専門店がありました。
半衿の選び方、付け替えでお悩みの方は気軽にお問い合わせは、またはご来店下さい。