織絵屋のブログ

おきもののことお気軽にご相談ください。初めての方でも、わかりやすくご案内させて頂きます。

 織絵屋の松山です!今回は、下記のようなお悩みを解決してくれる「悉皆業」について述べます。

「母の形見の着物、若いときに自分の給料で初めて買った記念の着物、成人式に着た振袖などがある。色んな思い出があって捨てられない。」「娘に着せたいけど、シミ、汚れがあるし、寸法も足りない、好みの色じゃないかも?」「これって、どうにか活かせる方法があるの?」

 

 悉皆(しっかい)とは「ことごとく皆」という意味です。

 

 着物は、白い生地があり、染める人がいて、箔や刺繍を施す人がいて、また、蒸す人、洗う人、シミを取る人…など、様々な分業によって完成します。

 

 これらの職人をプロデュースする、着物に関する全てに精通した人、つまり、オーケストラの指揮者に当たります。

 

 また、古い着物の補正や修正、染め替えの時は、それぞれにふさわしい加工を見極め、各職人さんに指示しなければならない大変な仕事です。

 

 このシミは、どうすれば取れるのか、取れなければ、どういう加工をすれば良いのか?元の色に何色を掛ければ、希望の色になるのか?…など、様々な問題に対処しなければならず、「悉皆(しっかい)」は「やっかい」と敬遠される仕事でもあります。

 

 しかし、古い着物でも、加工の良いモノは悉皆によって見違えるほど素敵に再生されます。否、加工する前より良くなり、感動するお客様もたくさんいます。

 

 例えば、母親の淡いブルーの振袖を藍色系に染め替えされたとき、その深い色に、本人もお母様もお祖母様も三代で感激しておられました。

https://www.youtube.com/watch?v=fcUuVtdFUxY

 

想い出があっても着られない着物を悉皆業の方にお任せして、再びスポットを当ててあげませんか?

織絵屋の松山です。今回は、常盤木(一年中、葉が青い木)である椿について述べます。

            

ヤブツバキやユキツバキなど椿は、日本が原産で、梅が中国から渡来するまでは最高の吉祥木とされていました。

 

平安時代、椿の実は油や化粧品、不老長寿の薬として重宝されていました。

 

また、古来、最も高貴な色とされていた紫を染めるのに、椿を燃やしてできた灰を焙煎剤として使用していたために、椿は貴族にとって高貴な花、聖なる花として扱われていたそうです。

 

室町時代に興った茶道の普及と共に、椿は茶花として脚光を浴び、茶道・遠州流の祖が好んだ椿文様は「遠州椿」と呼ばれています。

 

江戸時代には、椿は将軍から庶民まで広く愛好され、品種改良によって500種以上にもなったそうです。

 

江戸時代の武士は、花がぽとりと落ちるのが縁起悪いと家紋には用いなかったそうですが、古来、椿は邪気を寄せ付けない厄除けの呪木(じゅぼく)とされていました。

 

源氏物語『若菜』の帖に、椿餅(つばいもちひ)を食する場面が描かれています。これは蹴鞠(けまり)の鹿革の穢れを祓うためであり、椿の呪木としての力を信じていたのでしょうね。

 

これらのことから、着物や帯に使われている椿文様は吉祥花、厄除けとして、春だけでなく一年中楽しめる文様と言えます。

 

着物について知りたい、分からないことなど何でもお聞きください!きもの道47年の私・松山がお答えします。

織絵屋の松山です。今回は沖縄(琉球)の『花織』について述べます。

 

沖縄は、琉球王朝の時代に、科挙制度を取り入れて、村や島々の優秀な若者を中国へ留学させていました。

 

そして、それらの若者らが中国の織物技術を持ち帰り、それぞれの村や島の特徴ある織物へと発展させました。

 

それらの織物の中に、可憐な花模様のような柄を織り込んだ花織(沖縄ではハナウイと呼ぶ)があります。

 

花織は独特の浮き紋織(柄が浮き出る織り方)で、沖縄本島の『読谷山(ユンタンザ)花織』、『南風原(ハエバル)花織』、そして、与那国島の『与那国(ヨナクニ)花織』があります。

 

これらの花織は、琉球王朝の王や貴族以外は着用を許されない御用布でした。

 

花織の基本的な織文様には次のような意味があります。

 

招福や生活安泰を意味する『ジンバナ(銭花)』、長寿、健康を意味する『カジマヤー(風車)』、そして、末広、子孫繁栄を意味する『オージバナ(扇華)』。

 

  上からジンバナ(銭花)・カジマヤー(風車)

花織は、現在、着尺(着物用の生地)と帯が織られていますが、かつては、ティサージ(手巾)と呼ばれた手拭いが織られていました。

 

ティサージは肩や腰に下げ、装飾として使われていたモノで、二つの意味を込めて織られていました。

 

一つは、漁や旅に出る親兄弟の無事を願って織る『ウミナイティサージ(姉妹手巾・祈りの手巾)』、もう一つは、女性が愛する男性のために織る『ウムイヌティサージ(想いの手巾)』。

 

「思いを込めて文様を織る」なんて、現代人が忘れてしまったロマンかもしれないですね。

織絵屋の松山です。今回は、京都と並ぶ着物の一大産地と呼ばれる新潟県について述べます。

 

新潟県の内陸部にある十日町市、小千谷市が着物生産地の中心です。

 

2mを超える積雪があり、また、寒暖差や適度な湿度などが良質な糸づくりの条件に適し、麻織物は1200年も前から織られていました。

 

また、上杉鷹山が米沢藩の財政改革のために、越後(新潟県)の織物職人を呼び寄せて、米沢織などの様々な織物を開発したことは有名です。

 

代表的な織物としては、古くから織られ、国の重要無形文化財にしてされた麻織物の「越後上布」、また、およそ320年前の江戸時代に武士の夏服として開発され、大ヒットした「小千谷縮」があります。

 

近代では、明治の終わり頃から昭和初期まで、女性を魅了した蝉の翅(セミのハネ)とも呼ばれた「明石縮」、単衣の着物として最適な「塩沢お召」があります。

 

さらに、戦後に開発された、入卒業式時に母親たちが揃って着用した「黒絵羽織」、近年に開発された絞り染めの「おぼろ染」も外せません。

 

次々に、魅力的な着物を生み出す産地の熱意は、京都さえ凌ぐかもしれません。

 

近年に2度の大地震に襲われ、廃業した工房もありますが、今なお、苦境に負けずに頑張っている産地です。

 

皆さんにも、応援してもらいたい産地です。

 織絵屋の松山です。緯糸に太くて豊富な色糸を使って文様が織られた唐織の帯は、豪華に見えてとても軽いことから女性が憧れる帯です。今回は、唐織の帯について述べます。

 

  唐織は中国の織物という意味ですが、実際には室町時代から日本で織られるようになった縫取り織の一種です。

 唐織が日本で織られるようになった理由は、能装束にあります。能装束の文様は元々、刺繍で作られていました。

 

 しかし、豪華な文様の能装束は制作に時間が掛かり過ぎ、また、重くて舞い手の負担は大変なモノでした。

 

 糸を浮かせて織る織り方が中国から伝わり、平安時代の十二単の上着(唐衣)に用いられていました。

 

この唐衣の織り方を日本で改良と工夫を重ねて「唐織」が生まれました。

 

 唐織の特徴は、生地を織りながら太い緯糸を織物の表面に浮き上がらせて、立体感のある文様を表現するので、とても豪華です。また、裏糸、1本1本を丁寧に切り取り、整理するのでとても軽いモノになります。

 やがて、帯の製法にも使われるようになったのです。

 

 京都・西陣にある創業117年の「鈴木」では、フォーマル用だけでなく、カジュアルな紬や小紋にも締められる「水衣錦」という唐織も織っています。

| Next»

トップへ戻る