織絵屋のブログ
08/23: 『竹』の文様にはこんな意味が込められています。
織絵屋の松山です。竹と笹の違いは、竹の子が成長する途中で皮が落ちるのが竹で、皮が残るのが笹だそうです。
日本人は、古くよりおむすびや団子を竹の皮や笹の葉で包んで、腐るのを防ぎ、また、箸やカゴなど生活道具として利用し、竹はなくてはならないモノでした。
今回は、そんな竹の文様について述べます。
竹には、日本最古の物語と言われる『竹取物語』に代表されるように「子供」の意味があります。
以前、『松竹梅』の文様は「待つ・子供・産む」の意味で、早く元気な子供が生まれるのを待っているわ!というメッセージが込められているのですと述べました。
お正月の門松は、貴族が小松引きという行事で持ち帰った『子の日の松』を、新年の長寿祈願に飾ったのが始まりだそうです。
「竹取物語」が完成した平安中期以降、松と竹を一緒に飾るようになったと言われています。
これも年神様に子孫繁栄を願うものと言えます。
竹は3ヶ月ほどで親竹と同じ大きさまで生育する旺盛な生命力があります。ちなみに、かぐや姫も3ヶ月で年頃の娘に成長しました。
また、竹は節があり、その中は空っぽです。これは、腹に一物がない高潔さと節操を意味します。
このような意味がある竹も文様は、今でも着物や帯の文様としてたくさん使われています。
07/24: 糸を染めてから織る先染めの着物「お召し」の魅力
織絵屋の松山です!今回は「お召し」について述べます。
「お召し」は、正式には「お召しちりめん」です。生産量が少なく、希少な着物でしたが、近年、その魅力に気づく方が多くなりました。
一般的な「ちりめん」は後染め物用の生地ですが、「お召ちりめん」は糸を染めてから織る「先染め」の着物です。
お召しの歴史は古く、平安時代から京都で織られていました。
江戸時代、京都で大火があり、お召しを織っていた多くの職人が幕府の天領地だった群馬の桐生に移り住みました。
やがて、桐生は関東におけるお召しの一大産地になりました。
徳川11代将軍・家斉公が好んでお召しになったことから「御召」の名が付いたと言われています。
その織り方は、通常の生糸の10倍から20倍もの撚りをかけた強撚糸を3,000本以上もの経糸に使い、右撚りと左撚りの強撚糸を緯糸に使って交互に織り込みます。
織り上がった生地を洗うと、糊が取れて独特のシボができ、シャリ感のある、着やすい着物になります。
「お召し」は、軽くて、シワになりにくく、とても丈夫です。袷、または単衣に仕立てられ、セミフォーマルとしても、カジュアルとしても着られます。
男性、女性、どちらにもおすすめの着物です。
07/09: 帯のいわれ
織絵屋の松山です!今回は帯について述べます。
古くより、「帯は格上」、「裸にも帯」、「きもの一枚に帯三本」など、帯にまつわる多くの言葉があります。
これらは、「着物姿においては、何よりも帯が大切ですよ。」という教えでありますが、なぜ、そんな言葉が生まれたのでしょうか?
古来、日本人は長いものには霊的パワーが宿っており、龍神の化身であると考えていたようです。
江戸初期まで、紐状だった細い帯は、庶民が豊かになった江戸中期には、より霊力が強いであろう幅広の帯に変化していきました。
現代でも、結納金は『御帯料』と書かれています。これは、「新しい家族を守ってくれる霊力のある帯を揃えて嫁いで来て下さい。」という意味があるのです。
帯は大切な夫や子供たちを病気やケガから守ってくれる御守りの意味があったのです。ですから、夫や子供たちが大ケガをしたり、大病を患うと、帯の霊力が衰えたと考え、夫人は帯を新しいものに買い替えていたのです。
また、帯には吉祥文様や有識文様が織り込まれています。これも帯の霊的パワーを高めるためだと思われます。
そのような帯のいわれや帯に織り込まれた文様の意味などを知れば、もっと着物を着る楽しみが増えるのではないですか?
06/27: 「きもの」の語源は七夕にあった!
織絵屋の松山です。今回は「七夕」を「たなばた」と読む理由と「きもの」の語源について述べます。
七夕は、本来、「しちせき」と読むのが正しく、奈良時代に中国から伝わった五節句の一つで笹の節句とも言われます。
中国から五節句が伝わり、7月7日は「七夕(しちせき)」の節句にあたりましたが、日本ではそれ以前から7月7日は「たなばたつめ」の行事がありました。
もちろん、7月7日というのは旧暦ですので、大暑の頃になります。台風や日照りが発生しやすい頃なので、古代では、それまで順調に育った稲などの作物が台無しになることも度々でした。
そこで、雲を動かし、風を吹かせ、雨を降らせる龍神に「どうか、雨風の被害がなく、豊作でありますように!村人が幸せになりますように!」と、祈る行事が「たなばたつめ(棚機ッ女)」の行事でした。
村から選ばれた乙女が水辺のほとりの小屋で、龍神の衣装になる白絹を織り、棚に捧げたのです。
棚に捧げた白絹が「巻物(まきもの)」状だったことが「きもの」の語源となったと言われます。
日本古来の「たなばたッ女」の行事と「中国の七夕(しちせき)」が混同され、七夕は「たなばた」と読まれるようになったと言われています。
06/25: ロウケツ染の歴史
織絵屋の松山です!今回はロウケツ染めについて述べます。
ロウケツ染めの歴史は古く、飛鳥時代には、纐纈(こうけち・絞り染め)、狭纈(きょうけち・板締め染め)、蝋纈(ろうけち・ロウケツ染め)は天平に三纈(さんけち)と呼ばれていました。
ところで、布を水性の染料で直接染めると色がにじんでしまい、模様をはっきり描くことは出来ません。
これを防ぐのが防染技術です。まだ、友禅染は生まれていない古代の防染技術が上記の三纈です。
染めたくない部分を絞りや板締め、ロウで防染することによって模様染めが可能になるのです。
古代のロウケツ染め・蝋纈(ろうけち)は、蜜蝋を使っていたようですが、高価な染色法だったために平安時代には途絶えてしまいました。
室町時代から江戸時代にかけ、ロウ防染の技法で染められたジャワ更紗(バティック染)が輸入され、日本人を魅了しました。
明治時代の末期、鶴巻博士によってこのバティック染技法が取り入れられ、日本でのロウケツ染が新しく始まりました。
その後、昭和30年頃から、ロウケツ染は多くの工芸作家によってキモノにも染められるようになり、友禅染に並ぶ染め物に成長してきたのです。
ロウケツ染の魅力は、何と言っても重ね染めによる色の深さです。